SWdesign|Special Opinion|普あまねく 私がなぜアウディを辞め,何をやろうとしているかについて少しお話ししましょう。今年の6月日本帰国と共に私はある京都で古美術を営む友人から一つのメールをいただきました。その趣旨は私が描いている創造の方向性と偶然にももしくは必然的にも結びあっているように感じ取れました。このような言葉をいただける事に感謝しつつこのコンセプトをご紹介しましょう。 「普 あまねく」 私は特別なものでなくとも太陽のごとき人々に平等に光をもたらす事のそしてその恩恵を自然にそして平等に受け取れ、受け入れるありがたさーこんな感覚をデザインの中に取り入れたいと考えています。些細な事だけれども、そんなコンセプトの中に真の喜びがあり,幸せがあると信じています。私は長きに渡り『戦いのデザイン』をやってきました。しかしその末には本当の喜びや美しさ,幸せを感じる事はできないと感じるようになったのです。裕福であっても貧乏であっても、強い人間であっても,弱い人間であっても,皆太陽を平等に受け止め,その暖かさ,その光を受けて生きて行けるのです。些細なものです。些細な事です、しかしその概念の中には生きる核心があると思うのです。ここが私にとってのデザイン、そしてこれからのターゲットとなるコンセプトです。この言葉にこころから感謝します。この言葉をくれました良き友人に感謝します。あなたの言葉はあたかも私の使命における神の声に感じます。本当にありがとうございました。 和田様 およそ2年、ご無沙汰致しております。これからデザインの新しいお仕事をされると伺い、おめでとうございます。 自らデザインを創り出す立場にないものの、古美術に囲まれる事は 形象に留まらない、哲学や思想すら『デザイン』してしまう先人と共に居る心地です。
禅墨蹟の名品は、書の美しさ、表装や箱、その伝来、抜群の保存状態から 対象として美術品であるけれど・・・ 掛けたり・・・巻いたり・・・自ら行い・・・ 経年相応の折れや手擦れに禅墨蹟の意義を考えます。
禅僧が語句を吟味して、コンポジションや字体をどれほど工夫しようとも 「行雲流水」際限なく、留まる事もない相手を知覚で『切り取り』顕すのはナンセンスです。 それでも、墨蹟そのものは内に留めておくと・・・この現代社会に於いても 「この事を言わんとしていたのではないか!?」と思わぬ追体験を提供してくれます。
禅僧は優れたデザイナーです。
先日、出会った禅の言葉『普』の一字 「雲門」という禅僧の言で、ある人から「物事を正しく見るにはどの様にすれば良いか?」と訊かれ 「普 あまねく」と答えたそうです。 『普』は、太陽光が万象分け隔てなく降り注ぐ事。これと同じ様に・・・ 「本位となるべきものをなくし、真に公正であれ」
この話を長岡禅塾の浅井老大師から教わった時 和田様がカーデザイナーを仏師に例えられた事を思い出しました。
本当に『デザイン』が求められる時期に来ていると思います。 我々、古美術商が在るのは、ほぼ先人の手柄と申すべきもの。 我々の子孫の時代にも、現在我々が古美術と呼ぶものは存在するはずです。 これらと同等以上のモノを、これから我々がどれだけ創り出せるか? ジャンルを問わず、デザインの適ったモノが・・・ 結果、愛好者によって受け継がれてゆく事を願いつつ・・・
お仕事、次回作を拝見出来るのを楽しみに致します。 <back to Information |